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面白さを一言で言える物語は面白い。という考え方について。

 なんだか最近「一言で、どこが面白いのかを言えない小説はダメだ」みたいなことを良く耳にする。
 自分で書く小説の「売り」がどこか、と聞かれて、一言で言えないものはダメだ、売り物にならない。みたいな文脈で語られていることが多い。

 確かにそのとおりであり、自分で自分の書いている小説の「何が面白いのか」そして「どこが面白いのか」を認識できるだけの、自己の客観視が必要である。と言う点には同意する。

 この自己の客観視の能力が育っていない人は、作者である自分がわかりきっている情報であっても、それはちゃんと読者に伝わるように書かねば伝わらない。ということを理解できない。

 自分と他人の区別がついていないので、自分がわかりきっていることを書こうと思わない。
 ヒロインが可愛くて健気である。ということを、読者に伝える時に、外見だけを描写して、伝わっていると思い込んだり、ヒロインが主人公に好意を寄せる理由を、書かなくてもわかると思い込んでいる。

 こういう人に対して「自分の書く物語のなにが面白いのか」や「魅力的で読者をひきつける場所はどこなのか」を意識して書くことが大切である。言うことを教えるために
「どこが面白いのかを一言で言えるようになれ」と言うのは間違いではない。

 しかし、「一言で言えないものはダメ」みたいな言い方は、いささか間違った方向に行っている様な気がしてならない。
 それは、一定の数を落とすことが決まっているときの、足切りの理由である。
 こういう考え方をしていると、足切り理由を見つけることが、目的になっていく。

 商業出版においては「売り上げの数字が出ないものはダメだ」という厳然とした物差しがある。
 しかし、これは世に出た後の判断の物差しであり、世に出る前の物差しではない。この物差しを世に出す前に適用するのは「売る前に、売れるものがわかれ」と言うくらいむちゃくちゃな話である。

 こういう「足切りの理由」が大手を振って歩き始めると、小説の良し悪しをそれで計る、みたいなことになりかねない。
「尖ったところがない」と言う言い方も、これに似ている。

 尖ったところと言うのは「目立つ部分」と言う意味だが、なぜそこが目立ったのかと言えば、そこが面白いからである。
 グダグダで読めない部分が目立つ小説を「尖った小説」とは言わない。

 つまり「優れている部分」「ちゃんと読める部分」「読んでいて引き込まれる部分」これらの総称が「尖ったところ」なのである。

「今までに無かった切り口」とか「斬新なアイディア」という意味だとしてもそれはすべて、後ろに「面白いもの」という単語がつく。
「今までに無かった切り口で書かれていて面白いもの」であり「斬新なアイディアで書かれていて面白いもの」が評価されると言う意味であり。決して「今までに無かった切り口で書かれているが、読めないつまらないもの」が評価されるわけではない。

「一言で、どこが面白いのかを言える小説」を目指すのは構わないが、それだけになると逆に「売りが一つだけの単純で薄っぺらな小説」になってしまうのではないかと心配である。
 あれもこれもととっ散らかってしまうようでは、一つに絞るのも当然だが「どこが面白いのか一言で言える小説」というのは、いわば、牛丼弁当や唐揚げ弁当のようなものかもしれない。
 一つだけのおかずをメインにして弁当を作れば客は迷わない。
 牛丼が食べたい人、唐揚げが食べたい人は迷うことなく欲しいものを手に入れることができる。
 売るのも楽だし、客とのミスマッチは存在しない。

 しかし、牛丼や唐揚げと言う単品のおかずで勝負すると言うことは、バリエーションが少なくなるということであり、さらに言うなら競争が激しくなるということでもある。
 誰もが牛丼を作り、唐揚げを作り、少しでも手にとってもらうために、シノギを削る。
 書店の棚に並んでいる新刊の山を見るたびに、、私はそんなことを考える。
 牛丼や唐揚げは、求める客の数が多い。そこで差を見せることができれば、売れ行きはあっという間に増えるだろう。

 その、牛丼と唐揚げの過当競争から抜け出す方法は、どうにかして他のものと差異をつけることである。
 しかし、牛丼も唐揚げも、単品である以上、差を出すのは難しい。

 私が考えたのは、デラックス幕の内弁当である。
 牛皿と唐揚げと、サラダ煮物と玉子焼きを全部おかずにするのである【笑
 様々ないくつもの面白さの要素をしっかり書くことができれば、その小説は複合的な面白さを持つことができるはずである。
 「ご主人様は山猫姫」は、ミーネとシャールのラブコメと、戦記ものとしての戦闘や謀略。そして付け合せに、サブキャラ同士の恋愛模様と、架空の歴史を作る面白さを添えて、てんこ盛りにした幕の内弁当、なのである。

 山猫姫は「どこが面白いのかを一言で言えない小説」である。
 「一言で、どこが面白いのかを言えない小説はダメだ」と言う物差しで計れば、文句なしのダメ小説である。
 しかし、十巻まで巻を重ね、部数もそこそこの数字を維持しつづけているのも事実である。
 私は牛丼や唐揚げで勝負することを否定しているわけではない。選択肢をそれだけに絞ってしまうのは、いかがなものか、と言っているに過ぎない。

 作家志望者の方々は、その辺のところをちょっと考えて見て欲しいものである。

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