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【小説講座・その4】「すべてのセリフには理由と意図がある」

 ライトノベルの雄「電撃文庫」の電撃大賞の応募〆切まであと少し。という理由があるのかどうなのか、それはわからないが。昨日の日記も、読んでくれた人がいるらしい。

 ぼちぼちと、不定期連載のような形で【小説講座】をやっていこうと思っていたのだが、どうせなら、まとめて書きたいことを書いてしまおうと思う。

 とはいうものの【小説講座】と銘打つのも一種の洒落のようなもので、講座というほど洗練されているわけでも、読み物として面白いものでもない。
 まあ、このブログは、読者から「お金」を戴いていないわけで、一方通行的に私の「思うこと」を、ずらずら書き並べているだけなので、読むのも自由、読まないのも自由である【笑

前回で「情景描写」について軽く書いたが、キーワードを書いて読者の記憶の引き出しから、情景のフックを引っ張り出して来る。という作業をすごく簡単なことだと思ってる人は多い。
 これは、ある意味読者の心理を読むのに近い作業なわけで、どれだけ他人とのコミュニケーションが取れるか、という能力、もしくは、どれだけ自分の心理を見つめて自分の中にあるものを検証できるかという、このどちらかの能力を必要とする。
 
 前者が得意な人間、人間を観察して人間の心理を読む人は、エンタティメントに向いており。
 後者の、自分の心理を分析して、検証し、心理を突き詰めるのが得意な人は、純文学に向いているような気がする。
 
 ひと昔前の文豪とか文学者ってのは、気難しくて、憂鬱っぽいイメージがあるのは、この自分の内面を見つめているからそう見えるのかもしれない。

「作家って、他人のことなんか知らん顔でやっていける仕事ですよねえ、いいなあ」といわれたことが何度もある。どうやら本気で、そう思っている人が多そうだ。

 確かに、上司はいないし同僚もいないし、自分だけでやって行ける仕事であるが、「他人のことは考えないでもいい」仕事のわけがない。
 なぜなら読者は他人である【笑

 「読者は他人」作家志望者の方にクギを刺しておきたいのは、この部分である。

 私は、ライトノベルと言うのは、読者と作家の距離が近い。「仲間小説」だと思っている。読者と近い価値観と感性で書かれた、親しみやすい小説である。

 だが、仲間向けに書く小説だから、作者として気を使わなくてもいいし、自分が書いたものを、そのまま受け入れてくれるというわけではない。
 言わないでもわかってくれる仲間に向けて書いているのだから、書かないでもわかってくれる。というわけではないのである。
 書かなければ伝わらない。そして、これが一番大事な部分だが

「書けば書いたことになるわけではない」

 のである。

 これはどういうことかと言うと、昨日の「読者をそこに連れて行け」というのと同じ意味を持つ。
 つまり、シーン、情景、キャラクターの表情や感情は、「書いて」そして読者に「伝えて」初めて意味を持つ。ということである。

 そして、ここから先は、少し深くなるが、情景やキャラクターの表情や感情を書いて伝えるのは、なんのためか、ということも考えて欲しい。

 文章やセリフの根底には「意図」がある。読者に感じて欲しい、伝わって欲しいと思う想いがある。
 この意図を持つのは一次的に作者の意図、そして、二次的にキャラクターの意図の二つがある
 
 物語にカワイイ女の子が登場するときは「この子のかわいさに共感してくれ」もしくは「どうだ、この子かわいいだろう」と言う想いを抱く作者の一次的な意図の下にキャラクターのカワイイ言動が描かれるわけである。

 そして、二次的な「キャラクターの意図」とは、その物語世界の中に置かれたキャラクターが、その世界の中で生きていくための「意図」である。

 ここのところは、上手く説明するのが難しいのだが。キャラクターのセリフには、そのキャラクターの意図が必要である。としか説明の仕様が無い。

つまり、会話には、理由がある、ということかもしれない。
 
 たとえば、主人公に敵対するキャラクターの言動には「なぜ、主人公に敵対するのか」という理由が必要なのだ。
 これは小説の中だけの話ではない。人の言葉にはすべて理由がある。

 ここからは余談であるが、こちらの意見に、なにかにつけて反対してくる人間がいる。
 そういう人間は、揚げ足を取ったり、そんなことに意味は無いと頭ごなし否定したりするわけだが、その「否定の言動」の理由は何か、なぜ、この人は私のことを否定するのかということを考えて見ると面白い。

 人間が攻撃的になる最大の理由は、自己防衛である。
 自分の立場や、権威や、価値観が、相手に脅かされそうになると、人は反撃を始める。
 立場や価値観を支えているのは、自分が正しいと言う思い込みである。
 自分の方が優れている、自分の方が正しい、と思い込んでいる人は、自分が否定されようとしていると感じたとき攻撃に転じる。

 こういう攻撃は、長引く。相手を屈服させる。つまり、相手が自分を脅かさないとわかるまで、攻撃の手を休めることは無い。
 
 ちょっと冷静になって考えれば、別に攻撃しなくても、努力して、相手より敬意を持たれるような立場になれば、脅威でもなんでもなくなるのであるが、そんな努力をするより、攻撃した方が楽だし確実なので、攻撃に走るわけである。
 
 もし、社会に出て、自分に対して攻撃的な人と出会ったら、その言動に振り回されて、感情的に対応するのではなく、相手の「真意」というものを考える余裕を持って欲しい。

 真意がわかれば、相手の誤解を解いて、自分はあなたの脅威ではないと示し、無駄な敵対関係に陥ることを避けることもできるし、この分析を自分に向って行えば、自分がなぜその人間に敵意を抱くのかがわかる。

 無駄に攻撃的な人間は、それだけ何かに怯えているわけで、攻撃的な姿勢の裏には守りたい何かが潜んでいる。
 それが見えたなら、そこの「地雷原」の印をつけて、そこから遠ざかるのが一番である。
 そこを叩くのは最後の手段で一番の悪手である。相手の自爆に巻き込まれることほど無駄なことは無いからである【苦笑

 さて、本題に話を戻すと、物語の中のキャラクターにもこれと同じことが言えるわけである。
 キャラクターのセリフのすべてに、そのキャラクターの真意と意図が必要なのである。
 それを考えないままのキャラクターのセリフは「役割」としての意味しかない。
「ヒロインだから」「敵役だから」「ツンデレだから」「ドジっ子だから」「委員長だから」という役割だけの理由で話すセリフは、単なる記号であり内容が薄いのだ。
 
 作家志望者の方の書く物語に登場するキャラクターのセリフが、なぜ記号になってしまうのかと言うと、過去に読んできた物語のセリフを「こういうキャラはここで、こういうことを言うものだから」というパターンで認識しているためではないかと思っている。
 キャラクターは人形ではない、キャラクター一人一人に人生があり経験があり、考えも価値観も違うのだ。

 もう一歩踏み込んで欲しい。
 もう少し考えて欲しい。
 ぞんざいに言葉を選ぶのではなく、思いついた言葉をただ並べるのではなく、この言葉が最適なのかどうか常に自問自答して欲しい。

 小説と言うのは不思議なもので、素人の人の書いたものも、プロの書いたものも、ぱっと見ただけではわからない。同じ日本語で書かれている文章に違いは無い。

 だが、それは、素人が日曜大工で2X4の材木で作った椅子と、プロの家具職人が作った椅子を「同じ木製の椅子」というくくりで論じるようなものかもしれない。

 確かに日曜大工の椅子でも椅子として使えるだろう、ちゃんとボルトが締まっていれば、座っても壊れないし、ガタ付きも無い。
 しかし、細部の仕上げ、手触り、という部分では、家具職人の椅子にかなわない。
 そして、客は家具職人の椅子を買うだろう。

 どこに違いがあるのか、それを一言で言えば「こんなもんでいいだろう」と自分の仕事を見て自分で「よし!」と仕事をやめる、そのレベルの差だと思うのだ。
 日曜大工の「こんなもんでいいだろう、これでよし!」と家具職人の「こんなもんでいいだろう、これでよし!」との間には大きな差があるような気がする。

 その差の理由は、日曜大工の人は売るつもりで椅子を作っていない、と言う点にある。
 椅子として使えれば、それで合格点なのだ。
 
 小説で言えば「読めれば合格点」である。
 だが、考えて欲しい。小説大賞は、日曜大工のコンクールではない、商品としての椅子を作る新人家具職人のコンクールなのだ。
 
 書店に並び、お客さんがお金を払う「商品としての小説」を選ぶコンクールなのである。
 となれば、「読める」というのは「始まり」である。その上にどれだけ「面白い」が載っているかを競うわけである。

 応募作品を書き上げた方は「これでよし!」と思う前にもう一度読み直して欲しい。
 あなたが「こんなもんでいいだろう」と筆を置いたその文章は、本当にそれでいいのだろうか?
 
 神は細部に宿る。
 大賞の神もそこに宿っていると私は思うのだ。

 大賞の最終選考落ちで、結局何の賞ももらっていない作家が言ってもあまり説得力はないけれど【笑

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