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【小説講座・その5】『記憶力と観察力が発想の引き出し』

 ボーイスカウトのスキーツァーの付き添いのために、湯沢中里スキー場の駐車場に車を止めて、車内で仕事をしていた。

 湯沢中里スキー場は、越後中里駅の駅前にある。駅ビルがそのままスキーセンターになっているのだ。
 駅ビルの中には温泉レストランなどがあり、温泉は無料である。

 http://www.yuzawa-nakazato.com/winter/

 温泉と駅が併設されている施設はいくつかあるが、無料と言うのは、おそらくここだけではないかと思う。
 つまり、列車で越後中里の駅で降りれば、そのまま無料の温泉に入ることができるわけである。
 ただし、越後中里に停車する上越線各駅停車の列車は、冬季は一日あたり上り8本下り10本程度(越後中里止まりで折り返しを含む)なので、温泉に入るだけの理由で駅に降りても、時間を潰すのに困るかもしれない。

 越後湯沢駅前にある湯沢中里スキー場には、旧型客車を利用した無料休憩所が置かれている。
nakazato.jpg 

これと同じように廃車になった客車を店舗や簡易宿泊所に使っている施設が、以前は日本中に合ったが、その多くが老朽化のために取り壊されてしまった。

 この湯沢中里スキー場の旧型客車は、台車や足回りの部品ものそのままの状態で残されており、車内も客車の雰囲気を残したままなのだが、さすがに傷みが見えてきた。
 いつまで残っているかわからないが、内部に入れるのは、冬季のスキーシーズンだけなので、客車マニアの方がいれば、ぜひとも見に行って欲しい。今なら無料で温泉に入ることもできる【笑

 さて、小説講座の5回目は、読者をその場所に連れて行く文章の書き方について簡単に説明してみようと思う。

 以下の文章は、以前IRCチャットの「もの書き」で、小説の書き方と題して書いた文章であるが、ここに再録してみた。

**************************

物語を書く前に脳内に「引き出し」を一杯作ると便利である、ということはよく言われていることです。
 では、その「引き出し」とはどんなものを言うのでしょう?
 知識や、情報、武器や機械のスペック。
 そのあたりのことを「引き出し」だとお考えの人がいるかもしれませんが、そういった「事典の項目」のようなものだけが「引き出し」ではないと私は考えています。
 たとえば、どこかで見た光景の情景の記憶だとか、手触り、物音、寒さ暑さという「五感の記憶」も大事な「引き出し」だと思います。
 なぜなら小説を書くとき、作者は、その小説の舞台に読者を連れて行かねばならないからです。
 「夜の繁華街の裏路地にうごめく異形のもの」が出てくる話ならば、文章で、そこに「夜の繁華街の裏路地」を創り出し、そこに読者を連れて行かなくてはなりません。
 実際に「夜の繁華街の裏路地」に行ったことの無い読者も含めてです(w
実際に行ったことの無い人間を、どうやれば、行ったような気分にさせることができるのか。それは「連想と想像」にヒントがあります。
 ここで必要になるのが「引き出し」の中身です。
 今まで見てきた実際の裏路地の光景や、テレビ映画の中に出てきた「裏路地」の映像の記憶。
 これのなかにある「裏路地」を構成しているありとあらゆるものを、どれだけ思い浮かべることができるか。
 そこに自分が立っているとして、目の中に入るもの、耳に聞こえる音、匂い 風、 温度、そういった「五感の作用によって感じるであろうもの」をどれだけ引っ張り出して来れるか、それが「引き出しの中身」なのです。
ためしにちょっと並べてみます。「繁華街の裏路地」という場所をイメージさせる「要素」です
「四角く切り取られた空(夜空)」
「饐えた生ゴミの匂い」
「うろつくドブネズミと野良猫」「ビルの裏にある通用口のドアの脇に立てかけられたボロボロのモップ」
「ポタポタ水が漏る水道の蛇口の下に転がるひび割れたポリバケツ」
「非常階段の錆びた手すり」
「酔っ払いの吐瀉物が白くこびりついたアスファルトの路面」
「通り一本入っただけなのに妙に静かに感じる」
「遠くで聞こえる救急車のサイレン」
「ビルの隙間から見える高層ビルと、その屋上に点滅する赤い警告灯」
「表通りに面した小奇麗な顔とは正反対の薄汚れた壁面を見せる雑居ビル」
 ……と、まあこんな感じの「情景の要素」が私の引き出しの中から見つかりました。
引き出しをひっくり返せば、もっとこまごまとした物が見つかるかもしれません(w
  こういった「作者が書いた光景」と「読者が思い浮かべるであろう光景」とが脳裏で一致したとき、読者はそこに「リアル」つまり臨場感を感じるわけです。
 でも、その臨場感を与えるために書くべき分量は一行からせいぜい三行どまりでしょう。
それ以上ずらずら書き並べても冗長になるだけです。
「ぴったりの一言」とは、そのことを言うわけです。
  小説を書くために必要な力は、まず「観察力」そして「記憶力」次が「文章表現力」の順番だと私は思います。
 想像力は「観察力」に付随するものでしかないと私は思います。 なぜなら「この世に無いもの」であっても、それは観察力の結果蓄積された既存のものの要素の組み合わせで表現できるからです。

たとえば、この世に無い「スペースコロニーの夕暮れ」を書くとしたら私ならこう書きます
 

居住区の両側にある採光口の地平近くから、角度を調節された黄色い太陽光線が差し込んでいる。
僕のまわりにある草の表が、すべて金色一色に輝く上を風がさざ波のように渡ってゆくと、僕は自分が湖の水面に立っているような気がした。
遠く中央の無重力区に浮かんだ積層雲の縁が黄色く染まっているのが見える。
調光用のミラーの角度が、さっきよりも浅くなったのだろう、地平線から差し込む太陽光線は、さらにその力を失ってゆく。
コロニーの中に急速に暗闇が忍び寄っていた。
僕は息を殺して採光窓を見つめていた。
そして、太陽の光の最後の輝きが窓の縁から消えたその時。
一瞬にして採光窓に夜が訪れた。
「星だ」
僕と彼女は、採光窓の四角い空いっぱいに広がる満天の星空を振り仰いでいた。

 ……どうでしょう? スペースコロニーの中の夕暮れ感が出ていましたでしょうか?
 この文章の元になった「引き出し」の中身は
「夕暮れの草原で見た景色の記憶」
「温室越しに見上げた空の記憶」
「プラネタリウムを見た記憶」
 というものです(w


 既存の「引き出しの中身」だけでも「この世に無いもの」は描けるわけです。

 「小説を書きたい」と思うのでしたら、まず、この「引き出しの中身」を増やすことを考えましょう。
 世界には、あなたが今まで何の関心もなく見過ごしてきたものがいっぱいあります。
 自分には関係ないもの、興味を持たない物。
 それは今まではあなたにとって、存在しなかった物なのかもしれません。でも、小説を書くということは、その「あなたにとって存在していなかった物を含む、そこにある世界すべて」を創り出さねばならないということです。
 自分にしか興味が無い人、好奇心の無い人、世界が狭い人
こういう人は自分を主人公にした「私小説」を書くには向いているかもしれませんが、他人を楽しませる「エンタティメント小説」を書くには向いていません

  引き出しを増やす。
 引き出しの中身も、そして引き出しの種類も。

  これがすべての基本だと私は思っています。

*****************************


 読者をその場に連れて行け、と言う言葉の意味がお分かりいただけただろうか?

 次の講座では、その「情景を思い浮かべるための要素」を思いつく訓練方法。
「文章でのスケッチ」について簡単に解説してみようと思う。

【小説講座・その4】「すべてのセリフには理由と意図がある」

 ライトノベルの雄「電撃文庫」の電撃大賞の応募〆切まであと少し。という理由があるのかどうなのか、それはわからないが。昨日の日記も、読んでくれた人がいるらしい。

 ぼちぼちと、不定期連載のような形で【小説講座】をやっていこうと思っていたのだが、どうせなら、まとめて書きたいことを書いてしまおうと思う。

 とはいうものの【小説講座】と銘打つのも一種の洒落のようなもので、講座というほど洗練されているわけでも、読み物として面白いものでもない。
 まあ、このブログは、読者から「お金」を戴いていないわけで、一方通行的に私の「思うこと」を、ずらずら書き並べているだけなので、読むのも自由、読まないのも自由である【笑

前回で「情景描写」について軽く書いたが、キーワードを書いて読者の記憶の引き出しから、情景のフックを引っ張り出して来る。という作業をすごく簡単なことだと思ってる人は多い。
 これは、ある意味読者の心理を読むのに近い作業なわけで、どれだけ他人とのコミュニケーションが取れるか、という能力、もしくは、どれだけ自分の心理を見つめて自分の中にあるものを検証できるかという、このどちらかの能力を必要とする。
 
 前者が得意な人間、人間を観察して人間の心理を読む人は、エンタティメントに向いており。
 後者の、自分の心理を分析して、検証し、心理を突き詰めるのが得意な人は、純文学に向いているような気がする。
 
 ひと昔前の文豪とか文学者ってのは、気難しくて、憂鬱っぽいイメージがあるのは、この自分の内面を見つめているからそう見えるのかもしれない。

「作家って、他人のことなんか知らん顔でやっていける仕事ですよねえ、いいなあ」といわれたことが何度もある。どうやら本気で、そう思っている人が多そうだ。

 確かに、上司はいないし同僚もいないし、自分だけでやって行ける仕事であるが、「他人のことは考えないでもいい」仕事のわけがない。
 なぜなら読者は他人である【笑

 「読者は他人」作家志望者の方にクギを刺しておきたいのは、この部分である。

 私は、ライトノベルと言うのは、読者と作家の距離が近い。「仲間小説」だと思っている。読者と近い価値観と感性で書かれた、親しみやすい小説である。

 だが、仲間向けに書く小説だから、作者として気を使わなくてもいいし、自分が書いたものを、そのまま受け入れてくれるというわけではない。
 言わないでもわかってくれる仲間に向けて書いているのだから、書かないでもわかってくれる。というわけではないのである。
 書かなければ伝わらない。そして、これが一番大事な部分だが

「書けば書いたことになるわけではない」

 のである。

 これはどういうことかと言うと、昨日の「読者をそこに連れて行け」というのと同じ意味を持つ。
 つまり、シーン、情景、キャラクターの表情や感情は、「書いて」そして読者に「伝えて」初めて意味を持つ。ということである。

 そして、ここから先は、少し深くなるが、情景やキャラクターの表情や感情を書いて伝えるのは、なんのためか、ということも考えて欲しい。

 文章やセリフの根底には「意図」がある。読者に感じて欲しい、伝わって欲しいと思う想いがある。
 この意図を持つのは一次的に作者の意図、そして、二次的にキャラクターの意図の二つがある
 
 物語にカワイイ女の子が登場するときは「この子のかわいさに共感してくれ」もしくは「どうだ、この子かわいいだろう」と言う想いを抱く作者の一次的な意図の下にキャラクターのカワイイ言動が描かれるわけである。

 そして、二次的な「キャラクターの意図」とは、その物語世界の中に置かれたキャラクターが、その世界の中で生きていくための「意図」である。

 ここのところは、上手く説明するのが難しいのだが。キャラクターのセリフには、そのキャラクターの意図が必要である。としか説明の仕様が無い。

つまり、会話には、理由がある、ということかもしれない。
 
 たとえば、主人公に敵対するキャラクターの言動には「なぜ、主人公に敵対するのか」という理由が必要なのだ。
 これは小説の中だけの話ではない。人の言葉にはすべて理由がある。

 ここからは余談であるが、こちらの意見に、なにかにつけて反対してくる人間がいる。
 そういう人間は、揚げ足を取ったり、そんなことに意味は無いと頭ごなし否定したりするわけだが、その「否定の言動」の理由は何か、なぜ、この人は私のことを否定するのかということを考えて見ると面白い。

 人間が攻撃的になる最大の理由は、自己防衛である。
 自分の立場や、権威や、価値観が、相手に脅かされそうになると、人は反撃を始める。
 立場や価値観を支えているのは、自分が正しいと言う思い込みである。
 自分の方が優れている、自分の方が正しい、と思い込んでいる人は、自分が否定されようとしていると感じたとき攻撃に転じる。

 こういう攻撃は、長引く。相手を屈服させる。つまり、相手が自分を脅かさないとわかるまで、攻撃の手を休めることは無い。
 
 ちょっと冷静になって考えれば、別に攻撃しなくても、努力して、相手より敬意を持たれるような立場になれば、脅威でもなんでもなくなるのであるが、そんな努力をするより、攻撃した方が楽だし確実なので、攻撃に走るわけである。
 
 もし、社会に出て、自分に対して攻撃的な人と出会ったら、その言動に振り回されて、感情的に対応するのではなく、相手の「真意」というものを考える余裕を持って欲しい。

 真意がわかれば、相手の誤解を解いて、自分はあなたの脅威ではないと示し、無駄な敵対関係に陥ることを避けることもできるし、この分析を自分に向って行えば、自分がなぜその人間に敵意を抱くのかがわかる。

 無駄に攻撃的な人間は、それだけ何かに怯えているわけで、攻撃的な姿勢の裏には守りたい何かが潜んでいる。
 それが見えたなら、そこの「地雷原」の印をつけて、そこから遠ざかるのが一番である。
 そこを叩くのは最後の手段で一番の悪手である。相手の自爆に巻き込まれることほど無駄なことは無いからである【苦笑

 さて、本題に話を戻すと、物語の中のキャラクターにもこれと同じことが言えるわけである。
 キャラクターのセリフのすべてに、そのキャラクターの真意と意図が必要なのである。
 それを考えないままのキャラクターのセリフは「役割」としての意味しかない。
「ヒロインだから」「敵役だから」「ツンデレだから」「ドジっ子だから」「委員長だから」という役割だけの理由で話すセリフは、単なる記号であり内容が薄いのだ。
 
 作家志望者の方の書く物語に登場するキャラクターのセリフが、なぜ記号になってしまうのかと言うと、過去に読んできた物語のセリフを「こういうキャラはここで、こういうことを言うものだから」というパターンで認識しているためではないかと思っている。
 キャラクターは人形ではない、キャラクター一人一人に人生があり経験があり、考えも価値観も違うのだ。

 もう一歩踏み込んで欲しい。
 もう少し考えて欲しい。
 ぞんざいに言葉を選ぶのではなく、思いついた言葉をただ並べるのではなく、この言葉が最適なのかどうか常に自問自答して欲しい。

 小説と言うのは不思議なもので、素人の人の書いたものも、プロの書いたものも、ぱっと見ただけではわからない。同じ日本語で書かれている文章に違いは無い。

 だが、それは、素人が日曜大工で2X4の材木で作った椅子と、プロの家具職人が作った椅子を「同じ木製の椅子」というくくりで論じるようなものかもしれない。

 確かに日曜大工の椅子でも椅子として使えるだろう、ちゃんとボルトが締まっていれば、座っても壊れないし、ガタ付きも無い。
 しかし、細部の仕上げ、手触り、という部分では、家具職人の椅子にかなわない。
 そして、客は家具職人の椅子を買うだろう。

 どこに違いがあるのか、それを一言で言えば「こんなもんでいいだろう」と自分の仕事を見て自分で「よし!」と仕事をやめる、そのレベルの差だと思うのだ。
 日曜大工の「こんなもんでいいだろう、これでよし!」と家具職人の「こんなもんでいいだろう、これでよし!」との間には大きな差があるような気がする。

 その差の理由は、日曜大工の人は売るつもりで椅子を作っていない、と言う点にある。
 椅子として使えれば、それで合格点なのだ。
 
 小説で言えば「読めれば合格点」である。
 だが、考えて欲しい。小説大賞は、日曜大工のコンクールではない、商品としての椅子を作る新人家具職人のコンクールなのだ。
 
 書店に並び、お客さんがお金を払う「商品としての小説」を選ぶコンクールなのである。
 となれば、「読める」というのは「始まり」である。その上にどれだけ「面白い」が載っているかを競うわけである。

 応募作品を書き上げた方は「これでよし!」と思う前にもう一度読み直して欲しい。
 あなたが「こんなもんでいいだろう」と筆を置いたその文章は、本当にそれでいいのだろうか?
 
 神は細部に宿る。
 大賞の神もそこに宿っていると私は思うのだ。

 大賞の最終選考落ちで、結局何の賞ももらっていない作家が言ってもあまり説得力はないけれど【笑

【小説講座その3】 「読者をそこに連れて行け」

 過去に「その1・色々あって、が大事」「その2・あるある感がリアリティを産む」の2回ここで小説の書き方について軽く書いたが、結構なアクセスがあった。

 世間ではライトノベルの小説大賞の雄「電撃大賞」の〆切が近づいている時期でもあり、作家志望者のなかには、私のような末端作家の言葉でも「参考になるかもしれない」とお考えの方もいるのだろう。

 というわけで、今回は日記ではなく、小説について思ってることを書いてみようと思う。

 作家志望者の方の書いた物を読むと、これと言って、文法の間違いもないし、キャラクターの想いも行動も、矛盾無く書かれているし、ちゃんと読み進むことが出来るのに、なぜか、心躍らないという作品を書く人がいる。

 なんと言えばいいのだろう。物語が迫ってこないのである。
 何だか、薄いスクリーン越しに見ているような、非現実感、作り物感が最後まで消えない。
 当然、キャラクターに感情移入できないので、読み進めていくうちにだんだんとモチベーションが下がっていくのである。

 こういう人の書くものに共通する点は、描写が一定で、実に観念的だ。という点である。
 キャラクターが、立っている場所の説明が、書き割りを説明しているだけで、読んだ人間の肌身に迫ってこないのだ。

 描写とは、読者をその場所に連れて行くことである。
 その物語世界の、その場所にキャラクターが立っているのなら、それを見ている読者も、その場所に立たせなくてはならない。

 荒野なら、乾いた砂埃の中に立たせ、雑踏の中なら、人々のざわめきの中に立たせるのだ。

  寒いのか暑いのか、乾いているのか湿っているのか、うるさいのか静寂なのか、何が聞こえ、どんな匂いがして、どんな気分になるのか。
 
 これを全部書く必要は無い、読者に印象付けるだけの情報を添加するだけでいい。
 そこにキャラクターが立てば、当然感じるであろう、こういった情報が抜け落ちているとしたら、それは、そのキャラクターの立っている情景を、想像していないという証拠である。

 なんとなく荒野っぽい場所。くらいのイメージで書いていると、すべてのピントがボケていくのだ。
 
 たとえば、銃器の描写をするとする。ボルトアクションのライフルを操作する動作をこと細かく描写してあったとしても、それは、そのキャラがライフルを操作していることにはならない。それは単なる手順書、マニュアルコピーでしかない。

 本当に、そのキャラがライフルを操作するならば、そのキャラの習熟度に応じて、見る場所、気が付く場所が違うはずだ。

 ボルトを引いて薬莢が飛び出したときに、無煙火薬の匂いを嗅ぐはずである。
 コンクリートの地面に薬莢が落ちれば、チン! という澄んだ金属音がするかもしれない。
 匂いの中に、潤滑油の燃えるにおいが混じるのを嗅いで。その銃が新品同様であることに気が付くかもしれない。

 これはすべて、キャラクターがそのとき、つまりライフルを撃ったときに、当然感じるものであり、考えることでもある。
 
 読者は、そんなこと知らないのだから書く必要は無いと思う方もいるだろう。
 確かに、ライトノベルの多くが必要としているのは「ライフル」という記号であり、実際のライフルを撃つときに何を感じるのか、なんてことまで求めてはいない。

 だから、そんなことに気を配るのは無駄だ。 そうお考えの方もいるだろう。
 「らしさ」さえあればいいのであって、それが真実かどうかは問題ではない。と言う方もいるだろう。

 そのとおりである。「らしさ」が出ていれば無問題なのだ。問題は、その「らしさ」の精度なのである。

 「らしさ」がヌルければ、物語がヌルくなるのだ。
 作家志望者の多くが「こんなもんでいいや」と思っている「それらしさ」は、ちっともそれらしくないのである。

 一歩踏み込んで欲しい。「こんなもんでいいや」と思っている部分を、もうちょっと精密にその情景を想像して欲しいのだ。

 繰り返すが、そこに立ったものでなければわからない、五感の感覚を少しだけ加えるのだ。
 すべてを書く必要は無い。様々な感覚の中で、最も読者の印象に残りそうな情報を選択して、それだけを書けばいいのだ。

 描写とは、脳内にある語彙の中から「ぴったりの一言」を探し出してきてそこにはめ込むことを言うのである。

********************************

 たった今まで降っていたスコールが止むのと同時に、熱帯の太陽が照りつけた。
 アスファルト舗装の上に残った水溜りが一気に蒸発し、それは目には見えない水蒸気となってアラシアの街並みを包んでいた。
 冷房の効いたクーリオン空港の建物から表通りに出たとたん、足元から湿気をたっぷりと含んだ熱気が、むわーっと這い上がって来るのを感じた恵美は、思わず顔をしかめた。
 ……うわ、すごい湿気。
 暑いところだとは聞いていたが、実際にその場所に来て体験してみると、その暑さは恵美の想像を超えていた。
 通り過ぎていった黒い雲のあとに広がる真っ青な空を見上げて恵美は思った。
 ……わあ、夏の空みたい。

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 我田引水じみているが、これは私の書いた「ネオクーロンA」の冒頭のシーンである。
 私はこの文章を、読者をスコールが過ぎ去った後の熱帯のアラシアに連れて行くことを目的にして書いている。
 
 そしてこれを書いている情報の根源は、私の中にある、夏の夕立の上がった後のアスファルトの道路を歩いたときの記憶である。

 難しくもなんともないのだ。すべては自分の中にあるのだ。単にそれをどう取り出せばいいのか、そしてどう書けばいいのか、という部分の修練が足りないだけなのだ。
 
 作家になりたいのなら、観察と記憶、そしてそれを自分の中で文章にする再構成のスキルを磨く必要がある。
 
 俺の書くものにはカワイイ女の子しか出てこないから、そんな勉強は必要ない。と思っている人もいるかもしれない。だが、その「カワイイ女の子」を、どう描き出すかという部分のスキルが育っていなければ、その人の書くものは、その他大勢の中に埋もれてしまうだろう。

 その「その他大勢」から抜け出すためには「その人でなければ書けない文章」が、どれだけあるかに掛かっている。

 極端な話、300pの文庫本の物語の中に、その人で無ければ書けない文章、言い換えれば、その人でなければ読めない文章が1ページ分あれば、その物語は充分読者を引き付けておけるのである。
 
 その人でなければ書けない文章、その人でなければ読めない文章。とは、別に変わった文章変わった比喩、難しい単語を使うことではない。
 読んでいる読者が、はっとする、気づく、小さな発見を与える文章である。

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 隼人とケンジは、歩道いちめんに落ちている落ち葉をがさがさと踏みながら、研究所に向かって歩いていた。
 研究所の周りを取り囲む林の木々はすっかり葉を落とし、すかすかの枝のむこうに、研究所の建物が良く見える。
「はやぶさくん……どこに行っちゃったんだろうなあ……」
 隼人は、そうつぶやくと、空を見上げた。
 冬の青空は、ぴん、と澄み切っていて、まるで青いガラス板のように見えた。
 隼人の前を歩いていたケンジも、同じように立ち止まって、空を見上げる。
 北風が林の木々の枝を揺らす、ざわざわ、という音と、電線を鳴らすひゅんひゅん、という音を聞いていたケンジが、ぽつりと言った。
「オレ、このあいだ、兄ちゃんが、ラジオを組み立てているのを見ていたんだ」
 隼人は目を丸くした。
「へえ、すごい、ラジオなんか作れるの?」


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 これは、私の書いた角川つばさ文庫の「はやぶさ」の一節であるが、児童向けの小説であるために、難しい言葉が使えない。
 普通の平易な単語を組み合わせて、読んだ人の脳内に冬のイメージを浮かび上がらせることを目的として文章を書いている。

 この文章を読んだ人の脳内に、落ち葉をがさがさと踏んで歩いた経験や、関東の冬の、あのぴん、と澄み切った硬質な青さを見上げた経験や、北風が電線を鳴らす音を聞いた経験を呼び覚ませば、この文章によって読んだ人の脳内に、そういった光景が浮かぶだろう。

 描写とは、読んだ人のイメージを引っ張り出すフックでもある。


ネオクーロンA (角川スニーカー文庫)

ネオクーロンA (角川スニーカー文庫)

  • 作者: 鷹見 一幸
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2003/11
  • メディア: 文庫



はやぶさ/HAYABUSA (角川つばさ文庫)

はやぶさ/HAYABUSA (角川つばさ文庫)

  • 作者: 鷹見 一幸
  • 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日: 2011/09/28
  • メディア: 単行本



角川つばさ文庫の「はやぶさ・HAYABUSA」が増刷になりました。

 昨年公開された、20世紀フォックス映画の「はやぶさ/HAYABUSA」に続いて、東映の「はやぶさ 遥かなる帰還」が公開された。
 このあと、3月にも松竹の「はやぶさ」映画も予定されている。

 私が角川つばさ文庫でノベライズしたのは、昨年公開された、20世紀フォックス映画の「はやぶさ/HAYABUSA」が原作である。

 この話が私のところに来たとき、最初は困惑した。映画のノベライズという仕事は初めてだったし、なによりも、つばさ文庫向けに、どう料理すればいいのか、悩んだのだ。

 つばさ文庫は、いわゆる児童向け文庫である。小学生が主体で、中学生も含む年齢層向けに、小惑星探査機の物語を、どう書けばいいのか、ノベライズである以上、勝手に自分の物語を書くわけには行かない、かと言って、大人向けの映画をそのまま小説にするわけにはいかない。
 私は最初、JAXAの少年研究員。みたいな架空のポストを作って、主人公の少年をそこに置き、はやぶさのイトカワ着陸から、故障、ロスト、に至るまでのシーンに絡ませようと考えていた。
 しかし、シナリオとラッシュフィルムを見て、私の考えていたようなキャラクターを挟める余地がないことを知った。

 JAXAの全面立会いの下で、実在の相模原のキャンパスでロケを行った「はやぶさ」は、なんと言えばいいのだろう、まさしく再現ドキュメンタリーと言った方がいい、映画のつくりなのだ。
 ここに、むりやり少年を押し込めば、それは、映画のノベライズではなくなってしまう。映画の持つ、あの愚直なまでの再現性に申し訳ないと思ったのだ。

 この映画の中で、フィクションの人物は、竹内結子が演ずる主人公の「水沢恵」という人物だけで、それ以外は明確な特定のモデルが存在する。
 水沢恵も、フィクションとはいえ、一人ではなく、複数の人物をモデルにしているので、まるっきりの想像上の人物というわけではない。

 この映画の中で、子供が出てくるシーンは、水沢恵の幼少の頃の回想シーンと、相模原キャンパスで、相談員をやっていた恵のところにやってきて「ねえ、はやぶさくん、まだみつからないの?」と聞く、小学生のはやぶさマニアの少年だけなのだ。

 私は、この小学生を主人公にしたらどうだろう? と考えた。
 はやぶさプロジェクトの進行状況は、水沢恵お姉さんの視点で表現し、そして、はやぶさの冒険を、はらはらドキドキしながら見守る、小学生の視点を主にして描けば、はやぶさの7年に及ぶ旅路を、同じように7年の年月を掛けて成長していく物語が書けるのではないかと考えた。

 このアイディアが頭に浮かんだとき、私のイメージの中に同時に浮かんだのは、内之浦から打ち上げられるはやぶさの姿だった。

 幼稚園児の頃、内之浦でロケットの打ち上げを見たことのある少年が、相模原にある小学校に転校してきて、相模原キャンパスの展示室で水沢恵と出会い、そこで、自分が見たロケット打ち上げが、はやぶさの打ち上げだったことを知る。

 そして、はやぶさが、何をしようとしているのかを、恵お姉さんから聞いて、はやぶさに関心を持つ。

 物語の導入部はできた。しかし、書き出すには、足りないものが多すぎる。

 主人公の少年が歩いた町、ロケットを見上げた場所。その情景、その空気。少年になりきるために絶対必要な「土地カン」が足りないのだ。

 と、いうわけで、内之浦まで行って、主人公が見たであろう景色、歩いたであろう道を実際に歩き回ってきた。

 内之浦は、南の国特有の緑の濃い森に覆われ、ぎわぎわぎわ、とセミの群れが鳴いている、そのところどころに白いパラボラアンテナがにょきっと生えており、どことなくスターウォーズのイメージだった。

IMG_2493.jpg
 そして、次は、相模原への取材である。
 相模原キャンパスの展示室や、そこに置かれているもの、相模原の街並み、バスのルート、小学校の位置、主人公の少年が家族と暮らしているであろうマンションの位置。そこからキャンパスまでの道順、見えるもの。これをすべて取材してきた。
 ペンシルロケットの実物を展示室で見たときは、感慨深いものがあった。
 日本の宇宙開発は、ここから始まったのだ。
SANY0029.jpg


 そして、主人公が夏休みに林間学校で「星空教室」を開くという設定の丹沢山の奥にあるロッジの取材も行った。

 映画「はやぶさ」の持つ、泥臭いまでの再現性を、ノベライズするときにも忘れてはならないと私は思ったのだ。

 私の書く「はやぶさ」の主人公は実在しない。しかし彼の生まれた町、育った町、ロケットも見た場所、そこから見える景色、クラスメイトと通学した道、遊びに行った相模原キャンパス、そして林間学校で見上げた星空。
 これはすべて、実在する。私が、この目で見てきたものである。

 おかげさまで、そのつばさ文庫版「はやぶさ/HAYABUSA」の重版が掛かった、今回で三版めである。

 つばさ文庫は児童向けであるが、この本は、大人が読んでも読めるように書いたつもりである。もし、書店で見かけたら立ち読みでいいから、読んで欲しい。




 そして、私の書いた「はやぶさ」の元になった映画が、DVDとなって3月7日に発売になるそいうだ。
 映画館で映画を見逃がした方は、ぜひご覧になっていただきたい。

 
はやぶさ/HAYABUSA デラックスBOX〔初回生産限定〕 [Blu-ray]

はやぶさ/HAYABUSA デラックスBOX〔初回生産限定〕 [Blu-ray]

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • メディア: Blu-ray



はやぶさ/HAYABUSA [DVD]

はやぶさ/HAYABUSA [DVD]

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • メディア: DVD



はやぶさ/HAYABUSA (角川つばさ文庫)

はやぶさ/HAYABUSA (角川つばさ文庫)

  • 作者: 鷹見 一幸
  • 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日: 2011/09/28
  • メディア: 単行本



金沢からの訪問者・カンヅメ最終日

 土曜日にツィッターを見ていたらタイムラインに友人の「椎出啓」氏の「浦佐にいる」というつぶやきがあった。
 浦佐といえば、新幹線の越後湯沢の次の駅である。大雪で高速道路の湯沢六日町間が通行止めになっているというのに、そんなところで何をやっているのだろうと、電話をしてみたら。

「夜勤明けに、ふと、越後湯沢の爆弾おにぎりを食べたくなって、車に乗ってそのまま来てしまいました」

 という返事が返ってきた。
 こっちも、丸六日間、誰とも会わずに部屋に閉じこもっていたので、そろそろ外に出たいと思っていたので、これ幸いと、マンションに来るように伝えた。

 椎出氏の車で、越後湯沢の駅構内にある「雪ん洞」(ゆきんと)というレストランまで行き、この店の名物「爆弾おにぎり」を食べる
 爆弾おにぎり、というのはかまどで炊いたコシヒカリ一合分を丸ごと海苔で包んでおにぎりにしたもので、そのボリュームたるや、コンビニのおにぎりがその場にひれ伏すような迫力がある。
 写真を撮り忘れたので、食べログのページをリンクしてみた
 
 http://r.tabelog.com/niigata/A1504/A150404/15001249/

 なんというか、コメと海苔と塩だけでも、しみじみ美味い。日本人だよなあ。と感慨に浸れる味である。

 その後、スーパーで買い物をして、温泉に入って、馬鹿話をする。 
 椎出氏は、角川スニーカー文庫から「日常」のノベライズを出しているれっきとした作家であるが、本業は他にある、いわゆる兼業作家である。

 「日常」を書く前は、私の書くものの会話、特に、女の子系の会話をチェックしていただいていた。彼のセンスは、会話にある。
 私と関わるまで、文筆系の仕事は一切やったことがない。趣味の物書きはやっていたが、商業で仕事をするようになったのは、私が「会長の切り札」と「山猫姫」の会話を彼にリライトを頼んだのが始めである。

 7年ほど前に、彼の書く会話が面白いので、それだけを冊子にまとめて「親子丼」という同人誌を作ったことがある。
 この同人誌を、私の仕事場に遊びに来た角川スニーカーの編集さんに渡して「こういう面白いものを書く人がいるのですよ」と教えた。

 その後編集さんの方からのアクションは全くなかったのだが、やはり、会話劇の面白さは編集さんの記憶のなかにあったのだろう、「日常」をノベライズする企画がたちあがったときに、彼に白羽の矢が立ったのである。

 売り込みも営業も何もしていない。私がやったことといえば、彼の書いた同人誌、それも70ページほどの薄い文庫本サイズのそれを、編集さんに渡しただけである。それも7年前に。

 なぜ、そんな昔の同人誌一冊で、椎出氏に「日常」のノベライズのオファーが来たのか、本当の理由はわからない。ただ、私が言えることは、彼の書いた「親子丼」という物語が、編集さんの記憶の中で消えずに残っていたに違いない。ということである。

 面白い作品は、仕事を持ってくるのである。作者の意思や意向に関係なく。
 面白い作品は読んだ人の記憶に残り、そして、広がっていく。
「こんな面白いものがあるよ」と人から人を介して広がっていく。そうなれば、もう作者の手は届かない。
 そして、そうやって広がった作品は、仕事を連れて帰ってくる。
「こういうものを書いて見ませんか?」という電話が掛かってくるのである。【笑

 だから、作家志望者の方々に言いたい。まず作品を書きなさい。ということである。
作家にとって、書いたものがすべてであり、作家本人に意味は無いのだ。
「面白いものを書く」から作家になるのであって、作家になってから面白いものを書くのではない。
 
 作家が「私は作家でございます」と座っていても、誰もお金をくれない。
 作家は面白い作品を書いて、初めてお金がもらえるわけである。
 作家には意味が無い。書いたものだけに意味がある。というのはそういう理屈である。

 「私の頭の中にある面白い物語を書きたい」と思う人は作家になれるかもしれない。
 「書きたい物は思いつかないけど作家になりたい」と思う人は、おそらく無理だろう。
 
 書いたものが、その人を作家にしてくれるのだ。

 

日常の小説 (角川スニーカー文庫)

日常の小説 (角川スニーカー文庫)

  • 作者: 椎出 啓
  • 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日: 2011/07/30
  • メディア: 文庫



雪のリゾートマンションで小説講座・続きを書く

 大雪の越後湯沢のリゾートマンションに閉じこもって小説を書いていた。
 気が付くとテキストエディタでずっと

 All works and no play makes Jack a dull boy All works and no play makes Jack a dull boy
 All works and no play makes Jack a dull boy All works and no play makes Jack a dull boy

 と打っていた……。

 みたいなことは今のところ無いが、深夜、寝静まったマンションの廊下に出ると、窓の外は雪が舞い、吹き付ける北風が「びょぉおおおおうぅ……」という音を立てて、がらんとしたロビーに響いていたりする。
 この映画「シャイニング」のようなシチュエーションは、実に不気味である。

 何年か前、真夜中の二時ごろに、一階のロビーにある自動販売機にコーヒーを買いにいくためにエレベーターに乗った。一階に着いてドアが開いたら、そこに

 金髪の外国人の双子の少女が立っていた。

 驚きのあまり、心臓が止まると思ったが、どうやらその子達は一階にあるハーゲンダッツの自販機でアイスクリームを買い求めに来たらしい。
 
 驚いている私を見て、くすくす笑いながら、入れ替わりにエレベーターに乗って行ったが、後にも先にも、あれほど驚いたことは無い【笑

 さて、昨日のブログで「小説の書き方講座・のようなもの」を書いたら、なんだか好評だったようで、色々な人からツィッターでリツィートされた。
 調子に乗って、昨日の続きをちょっとだけやってみたい。

 昨日、私は「夏の終わりのコンビニで後輩に出会う」と言うエピソードを書く訓練を提案した。

 このお題でエピソードを書くとした場合、重要なのは「誰が」でもなく「どんな後輩が」でもない。
 
 そういったキャラクターを描くことも重要だが、そっちの方は、大概の人が書ける。
 多くの人が書けないのは「夏の終わり感」と「コンビニ感」である。

 これはある意味仕方ない。マンガでもアニメでも、もちろんライトノベルでも、読者の目はキャラクターを追いかけるようにできているし、作者もそれをメインで書いている
 いわば、マンガのキャラクターだけ、表情や仕草や、セリフだけを読んでいるわけである。

 読むだけならそれでいい、自分の興味の及ぶところだけを読み取ればいい。しかし、書くときはそうは行かない。マンガでそれをやればどうなるか。
 キャラクターだけしか書かれていない、背景も何も無い真っ白なコマが並ぶことになるわけである。
 
 昨日私が言った『色々あって』というのは、マンガで言うところの背景である。
 マンガを読むとき、ほとんどの人は背景を読んでいない、背景は意識して読むものではなく、キャラクターに付随して、一緒に無意識のうちに読み取っている情報である。

 意識していないから、いざ、自分が書く段になると、そこを再現できない。
 
「主人公のキャラもかっこいいシーンも書けるのに、なんでこれが繋がらないで、ぶつ切りな物語になってしまうんだろう?」

 ということになる。読者の視点で作者側に回ると、様々なことが抜け落ちていることに気が付く。それに気が付かないまま小説を書いても、それは、実に内容の薄いダイジェスト版にしかならないのである。

 さて、話を戻すと、私の出したお題の「夏の終わり」と「コンビニ」をどう書くかということである。

 一番手っ取り早いのは「夏の終わりのコンビニ」と書いてしまうことである。
 こう書けば、読者が勝手に脳内に夏の終わりのコンビニを思い浮かべてくれるのだから、余計なことは書かないでもいい。と言う人もいる。

 確かにそのとおりである「放課後の教室」「朝の校門」と書けば、読者にはその情報が伝わる。間違っても「1943年の東部戦線」や「ワイキキの浜辺」を思い浮かべる読者はいない。

 しかし、これだけの情報で、読者に投げてしまったその情景は、実に頼りないものとなる。
 読者の脳内に、どんな映像が浮かぶのか、それをコントロールできないのだ。

 情景描写というのは、読者をその場所に連れて行くことである。
 
 「夏の終わりのコンビニ」に連れて行くこと。そしてそこで、キャラクターの会話を見せるのが作者の仕事である。
 
 ここで重要なのが「連想」である。
 もし、あなたが、夏の終わりのコンビニに行ったとしたら、なにを見て「ああ、夏も終わりだなあ」と思うか。ということである。

 売り場に目を落として、「ああ夏も終わりだな」と感じる品物にはどんなものがあるだろうか?
 「値引きされた日焼け止めクリーム」「売れ残った花火
 他にも色々あるかもしれない。

 答えは自分の中にあるのだ。
 あなたが、そう感じるものを、書くのだ。
 
 その言葉を読んだ読者の中には、あなたが感じたのと同じ「夏の終わり感」が浮かぶだろう。
 おそらく読者は明確に意識はしていない。さっと読み飛ばしてしまうだろう。だが、意識の中にはしっかりと「夏の終わり感」が残るのだ。

 そして、その感覚が「リアリティ」に通じるのである。
 リアリティというのは、微にいり細にわたって説明することで出るものではない。

 書かれた文章が、読者の体験や記憶と一致するときに、読者はそこにリアリティを感じるのである。
「ああ、あるある、こういう感じって」と読者に思わせれば、それはまごう事なきリアリティなのである。

 これがマンガで言うところ背景であり、「色々あって」の根幹になる部分だと私は思う。
 そして、こういった言葉を思いつくには、観察力と記憶力が必要となる。

 観察力と記憶力の訓練の方法もあるのだが、それはまた次の機会にしようと思う。  

 本日の広告は、スタンリーキューブリック監督の「シャイニング」である。スティーブンキングの原作を、キューブリック流に解釈して作られた映画であり、この映画によって生じたキングとの確執が、後にキング監修のテレビドラマ「シャイニング」を生むこととなる。
 原作とは異なるが、この映画版は、映像の美しさと、何よりもホテルの亡霊に取り込まれ狂っていくジャック・ニコルソンの演技が実に素晴らしい。
 このシャイニングは後に、様々な映画でオマージュとして取り込まれていることでも有名で、いかに、当時の映像作家に影響を及ぼしたかがわかる。
 寒い冬、雪の中でぜひとも見ていただきたい映画である。

 
 
シャイニング 特別版 コンチネンタル・バージョン [DVD]

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小説の書き方講座、のようなもの(不定期連載予定)【笑

 越後湯沢にカンヅメになって五日目である。
 ここ数日、越後湯沢は天気がよくて、外を眺めると雪景色がまぶしくてサングラスが欲しいくらいである。

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 もっとも、この好天も今日までで、また明日から雪が降ると天気予報では言っている。
 まあ部屋から出ないのでこれと言って問題は無いのだが(w

 なぜ部屋から出ないでも済むのかと言えば、マンションに併設しているホテルに、売店はあるし、レストランはあるし、特にスキーシーズンはスキー客用のカフェテリア方式のレストランが開いているので、気軽に食事が取れる。
 
 懐具合を気にしなければ、バーも、バイキングレストランもある。いずれもニューオータニ系なので、レベルは高い【値段も高い】

 さて前振りはこれくらいにして、一応曲がりなりにも作家業として生計を立てているのだから、少しぐらいは小説の書き方について書いた方がいいだろう。

 とはいえ、世間には「小説の書き方」を書いた本が山のように出ている。そのどれもが名だたるベストセラー作家さんたちの書いたもので、私のような、売れているんだかいないんだかわからない、堅実といえば聞こえはいいが要は三流作家の小説の書き方とは、説得力が違う。

 しかし、一流の作家さんのやり方は、実に素晴らしいがレベルが高い。なかなか真似しようと思ってもできるものではない。

 その点私のような、末端作家はレベルが低いので、真似しやすいかもしれない【笑
 というわけで、私なりに小説を書くときのコツのようなものを書いて見ようと思う。

 その1・ 小説で一番大事なのは「色々あって」の部分である。
 
  これはどういうことかと言うと、物語を書くときに、まず脳内で思い浮かべるのは「見せ場」であり、誰もがその「見せ場」をカッコよく書くことに力を入れるが、実を言うと、見せ場よりも、その見せ場を繋ぐ部分の方が重要だ、ということである。

 たとえば物語を人に口頭で説明するときのことを思い浮かべてほしい。

「この話は、こんな主人公が出てきて、そいつはこんなヤツでこんな能力があって、こんなことができるんだ、んでもって『色々あって』そいつの前に敵が立ちふさがるわけだ。
 そして、こんな戦い方をして、決め技を使うんだけどそれが通用しないんだ、でも最後に大逆転して勝つんだよ」

 この説明の中で『色々あって』で省略された部分。ここが重要なのだ。

 物語には、大きく動く「山場」「見せ場」がいくつもある。
 戦闘シーン、アクションシーン、大きくドラマが動く、謎が明かされるシーン。
 それをどう描くかというのは重要である。
 しかし、その山場、見せ場、だけでは、物語にはならないのだ。それだけを描いたものでは、単なる予告編である。

 それらのシーンを支える、繋ぐ、ごく当たり前の会話や、日常のシーン、会話、それをしっかり書けて初めて、こういった見せ場、山場が引き立つのである。

 こういった、何のへんてつも無い普通のシーンを、描くのは見せ場を書くよりも難しい。こういうシーンには読者をひきつける要素が無いのだ。
 
 当たり前の、普通の日常を描いて、なおかつ読者にそのシーンを飛ばし読みさせないためには、その、なんでもない普通の状態で、キャラクターの魅力を描き出さねばならない。
 読者が興味を持つように、キャラクターを描写し、会話をしなければならない。

 いくら外見描写を並べても、いくら「かわいい子」と書いても、書けば書いたことになるわけではない。
 淡々と描いて、なおかつ読ませるのは実に難しい。ならばどうすればいいのか。
 淡々と描かねばいいのである。
 キャラクターが常にハイテンションで動き回り、コントのような会話をぶつけ合えばいいのである。
 
 エキセントリックなキャラクターがハイテンションで動けば、とりあえず読者はついてくる。それは飽きさせないための工夫である。
 
 しかし、エキセントリックでハイテンションなキャラばかり出てくる作品世界は、ギャグマンガと同じである。
 完璧な架空の世界、リアルを最初から切り捨てた物語向けなのだ

 ハイテンションを続けるのは、いわば全力疾走しているようなものなので、巻が重なるに連れて息切れしてくるようになる。
 キャラも持たないし何より作家が持たない【苦笑

 何も起きない、起きても、些細な出来事だけ、そういう日常を日常としてしっかり描けるようになれば、見せ場や山場のアクションシーンもしっかり書けるようになる。

 夏の終わりのある日、主人公が、学校帰りにコンビニに立ち寄って、そこで後輩の女の子に出会う。

 作家志望の方は、試しに、この、何のへんてつも無いエピソードを書いてみて欲しい。
  
 決め手は「夏の終わり感」をどこで出すか、である。セリフで「夏も終わりですね、センパイ!」と書くのは一番楽だが、それでは訓練にならないので、そういうセリフは無しで、やってみて欲しい。

 「色々あって」というのは、いわば物語の基礎、土台である。ここをおろそかにしてしまうと、空中分解するか、スカスカな物語になってしまうのである。

 


 

越後湯沢執筆カンヅメ、3日目

 日曜の夕方に越後湯沢に来て、月曜日から本格的に執筆カンヅメに入った。

 越後湯沢リゾートマンションで、一人で、朝から晩まで小説を書く以外は、メシを作ったり、時々気分転換でツィッターの画面を除いたり、こうやってブログを書いたりしているわけである。

 私はこのブログ以外にもウェブページを持っていて、そこにメールフォームがあり、そこから私宛にメールを送ることができるようになっているが、先日そこから「ブログなんか書いてないで小説を書け」というお叱りのメールが届いた【苦笑

 確かに、毎年一年に5冊から6冊の本を出版してきたわけだが、昨年は4冊しか出版されていない。山猫姫9は、11月に出る予定が4ヶ月遅れ、来月の10日に出る予定である。

 一昨年が7冊出版したのに、なぜ、昨年は4冊しか出せなかったのか。まあ色々事情はあるが、作家も人の子、親もいれば兄弟もいる。会社勤めでは無い分、自由に時間を使えるとはいえ、母親と兄の両方が、新潟埼玉別々の場所で入院してしまったため、どうしようもなくなったわけである。
 
 年が明けて、やっとのことで退院してきたので、やっと本来の執筆に戻れるわけであるが、この執筆と言うのも、意外と波がある。

 というか、書かないでいると脳内の文章作成回路が錆び付くのだ。
 自動車も古くなると、なかなかエンジンが掛からなくなるように、なかなかすらすらと筆が進まなくなる。

 このブログは、いわば暖機運転のようなもので、小説と違って、物語を進めていく必要が無い。いわば好きなことを好きなように書ける分、実にストレスレスで書けるのである。

 長文のブログでも、ものの30分も使わずに書けるので、気分転換にもってこいなわけである。

 越後湯沢の大雪は相変わらずであるが、先日、というか13日の月曜日は実に良い天気で、陽が差して気温は三度まで上がった。
 
 この日の昼頃に小出の業務スーパーまで、買い物に行ったのだが、そのとき高速道路で面白いものを見た。

 助手席に座っていた妻が写真を取ったのだが、わかるだろうか?
 高速道路の路面に見えているのは「逃げ水」である。
 
nigemizu.jpg
 路面の気温と、周囲の気温の差が生じたときに起きる光の屈折現象で、真夏の道路などでよく見られる。
 というか、私は「逃げ水」というのは、夏にしか起こらないものだと思い込んでいた。
 当然、夏の季語だと思い込んでいたのだが、調べてみると、「逃げ水」は春の季語だった。
 
 越後湯沢の山も河原も水田も、真っ白な雪で覆われているが、高速道路の上には間違いなく春が訪れはじめたようである。
 
 今執筆中の小説は電撃文庫の「山猫姫10」そして角川スニーカーの新シリーズと、同じく早川書房からオファーを受けているスペオペで「宇宙士官学校」を舞台にした物語である。

 この三つを同時進行しているのだが、その書き方は。まず「山猫姫」を書く。疲れたり、詰まったらコーヒーを飲んで、気分転換に「角川スニーカー」を書き、それに詰まったら「宇宙士官学校」を書く、と言うローテーションである。

 これを三セットほど繰り返すと、さすがに脳みそが茹るので、気を抜いてツィッターを見たり、ブログを書いたりするわけである。

 今週末までにどれも、それなりに形にしなければならないので、気合を入れて行かねばならない。
 
 来月は次男の卒業、引越し、入学と言うイベントが控えている。ここで頑張らないと引きずるわけにはいかないのである【苦笑。



コミック版「会長の切り札」2巻が発売されます。

 世間ではバレンタインデーとやらで、色々盛り上がっているようだが、54歳の越後湯沢のマンションにカンヅメ中の男性作家には無縁である。

 そもそもバレンタインデーが、今のような世間一般に認められるようになったのはいつ頃からなのだろう?
 少なくとも、私が小学生だった1960年代には、こんな風習は無かった。クラスの中にいる女子の間では「ねえねえばれんたいんでーって知ってる?」みたいな会話が交わされていたのだろうが、世間はどこ吹く風で、今のようにスーパーにチョコレート売り場が特設される、なんてことは皆無だった。

 私のようなダサい男子にとっては、実に平和で素晴らしい小学生時代だったのである。時代に感謝したい。

 バレンタインデーを取り巻く環境が一変したのは70年代に入ってからである。
 少女雑誌で特集され、それに、不二家が乗った。
 1971年に、ハートチョコが発売される。

 元々ハート型のチョコレートは昭和10年に発売されていたそうだが、現在流通している、あの平べったくてピーナッツが入っているタイプのものは、1971年の発売である。

 山下達郎の歌う「恋はハートで」のCMソングとともに、バレンタインデーの風習は一気に全国に広がり、チョコレートは女の子たちに恋の甘さを、そして非モテ男子には嫉妬の苦さを教えるようになったわけである。

 さて、私には、とんと縁のないバレンタインデーの話はこれくらいにして、今日は、明日書店に並ぶ

 「コミック版 会長の切り札・2」
 
 の話を書こうと思う。
 
 このコミック版会長の切り札は、ウェブ版の「ファミ通コミック・クリア」で連載されたものを単行本にまとめたものである。
 原作の「会長の切り札」は角川スニーカー文庫。コミックは「ファミ通」同じ角川グループであるが出版社が違う。
 
 私のところに話を持って来たのは、スニーカーの担当編集さんで、ファミ通の編集さんとは一度も話をしていない。

 まあ、編集さんとあまり話をしないまま、本が出ることは、よくあることなので、気にしていないが、今回のコミック化に関しては、「会長の切り札」が、すでに完結した物語であり、コンテンツとして確立しているので、物語の展開とか、そういった部分の打ち合わせは必要ない、と言うのが大きいだろう。
 
 つまり、今回のコミック化に関して、一番重要なのはスニーカー文庫の持っている「会長の切り札」というコンテンツを、ファミ通が使う。という部分であり、それに伴う出版社間での権利義務のすり合わせの部分が一番大変だったのではないかと思う。

 私としては「会長の切り札」はもう完結した物語であり、あの4冊について、何をどうしてくれ、などと言うことはできない。私の仕事は、あの4冊を書いたところで終わっているので、そのコンテンツをどうするかはご自由にどうぞ。と言うしかない。

 私が望んだのは、マンガ家さんがあの物語を読んで「面白い」と思ったのなら、その面白さを描いて欲しい。ということである。
 私の面白さではない、マンガにする人の面白さを優先して欲しいとお願いした。
 私のコンテンツで遊んでもらえれば、それが一番面白いはずである。

 私の交友関係は、実を言うとマンガ家さんの方が多い。
 私は今でも、マンガ同人グループ「作画グループ」の会員であり、かれこれ37年目である。
 
 「みなもと太郎」氏の仕事場にお邪魔して(まさしく邪魔だったと思う)当時、連載中だった「風雲児たち」のベタ塗りをしたり、関が原で戦う足軽を描いたりしていた。
 
 その頃、私もマンガを描いていた。
 そのマンガを読んでいただいたとき、みなもと太郎氏が、ため息をついて「あんた、物語はそこそこ面白いのね、でも、絵が決定的にダメだね。いっそのこと文章の方にお進みになれば?」とおっしゃられた。

 その言葉が、私を作家へと進ませたのだが、きっとみなもと先生は、覚えていらっしゃらないだろう【笑

 尊敬する人間の言葉は、人間の一生を決めることがある。というひとつのケースである。

  友人のマンガ家さんのなかには、原作つきの仕事をしている人もたくさんいる。コミック化の仕事をしている人もいる。

 そういう友人と話をしていると、必ず「原作者」に対する愚痴が出る。
 「イメージと違う」「こんな顔してない」「こんなシーンは書いてない」
 そういった原作者からのクレームが、編集を通じてやってくるらしい。

 マンガの面白さは、マンガという表現による面白さであり、原作の面白さに、さらにそこにマンガ家という表現者が加わることで、より面白くなるものでなければいけない。

 原作は、カタパルトであり、マンガというコンテンツをより面白く加速して射出するためにあると私は思う。

 原作者の、自分のコンテンツに対する「思い入れ」もわからないではないが、その辺の思い切りと言うか、すりあわせを自分の中できっちりつけないと、そのコンテンツは広がっていかないだろう。

 とにかく、私の周りにはマンガ家の友人も多い。アシスタントや編集をやっている人もゴロゴロいる。 
 マンガを語らせれば、ウザいくらいいろんなことを言うだろう。自分でマンガを描かなくなったマンガマニアほど、めんどくさいものは無いのである【笑

 だから、私は、今回のコミック化に関して、全権をファミ通の編集さんに渡した。
 「餅は餅屋」に任せたわけである。
 
 かといって、責任を逃れるつもりはない。原作者としての責任はすべて負う。あれは勝手に俺の知らないところで誰かがやったことだ。とは絶対に言うつもりはない。
 
 結果も何もかもすべてひっくるめて、私の責任である。
 
 というわけで、「コミック版 会長の切り札・2」をよろしくお願いする。
 コミック化していただいた「やとやにわ」さんには、ご苦労様&ありがとうございます、と言う言葉しか浮かばない。
 
 そして担当の編集さんには「コミック化しずらいコンテンツで申し訳ありません」と頭を下げたい。
 
 明日には書店に並ぶだろう。アマゾンで買うなら、下の広告をぽちっと押して欲しい。


会長の切り札(ジョーカー)(2) (ファミ通クリアコミックス)

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  • 作者: やとやにわ
  • 出版社/メーカー: エンターブレイン
  • 発売日: 2012/02/15
  • メディア: コミック



「インダストリアルマニュアル文化」と「秘伝書文化」

 私の持っている「宝物【と書いてガラクタとルビを振る】」の中には、手錠や火縄銃といった品物だけでなく、いわゆる「古本・古雑誌」などに分類されるものもある。

 私がライターをしていた頃、1980年代の「月刊OUT」や「宇宙船」「スターログ」などは、間違いなく古雑誌であるが、そういういわゆるサブカルチャー雑誌以外にも、アメリカの銃関連の雑誌「ショットガン・マガジン」などもコレクションになっている。

 そんなものの中に、アメリカ陸軍の整備マニュアルの一種「P.S」がある。

 本来、整備マニュアルというのは、車両や機器それぞれに用意されているものだが、これは季節や気候の違う場所で、車両や機器を整備するときのちょっとした注意事項や、身近な知恵などをまとめた、小冊子である。
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 その中の一冊を例に挙げたが、表紙の絵を見てわかるとおり、これは「冬季に車両の整備をするときに注意すること」をまとめたもので、内容は、冬季用エンジンオイルの番号や、戦車や装甲車のバッテリーがあがったら、どうやって動かすのか。
 ブースターケーブル使い方や、端子の位置などについて、イラストをふんだんに使って解説してある。
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 ちょっとしたコラムのような場所には「上級軍曹からのアドバイス」と題して「冬はピストルのホルスターの止め革が硬くなるので、良く揉んで、柔らかくしておくのだ」などという生活の豆知識、みたいなものがあったりして、面白い。
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 なんと言うか、読んでいるだけで、「こういうとき、どうすればいいのか」が頭の中に入ってくるような作り方なのだ。

 日本でも、最近は、たとえば自動車の取り扱い説明書などでは、図版が大量に使われていて、先日買い換えた長男のミラ・イースのマニュアルは、実にわかりやすかった。

 アメリカの軍用のマニュアルが、こういった「わかりやすいこと」を前提に作られている理由は、根底に、稼働率を上げることと、専門家でなくても、動かせること。というのが前提にあるからだと思う。

 車両の整備や機器の調整に関しては、様々なノウハウがある。
 その中には、職人芸のような、余人を持って換え難き能力を必要とする精緻な技術もある。

 だが、そんな神業が求められるケースは実に少ない。求められていることのほとんどは、誰でも何とかできるレベルの、実に敷居の低い技術である。

 こういう、いわば「裾野」の技術や知識を教えて覚えてもらうには、アメリカのマニュアルの作り方は最適だろう。

 しかし、日本では、長い間、こういった実務レベルのマニュアルを作ることができなかった。

 日本は、どうにもそういうやり方が不得手なのだ。これは、ひとえに、江戸時代の長い師弟文化が原因のような気がする。

 江戸時代の日本には、工場による大量生産という概念が無い。布も紙も糸も金属加工も、すべて師弟制度の職人たちが、家内制手工業で生産していた。工房はあっても、工場は無かったのだ。

 こういう文化で、作業手順を教えるとなれば、マニュアルなんてものは必要ない。「見て覚えろ、真似して覚えろ、仕事のノウハウは教わるものじゃない盗むものだ」という現在でも連綿と続く実務教育のやり方である。

 この「ノウハウの伝授は文書に残さない」と言うやり方は、たとえば、砲術の秘伝書などにも言える。
 
 砲術だから、当然火薬が必要になる。黒色火薬の配合について書かれているはずの「砲術秘伝書」には、肝心の部分はすべて。

 「口伝」【くでん】つまり「口で言って伝えたよ、だから書かないよ」という文字が並んでいたりするのだ。

 余談だが、この口伝は、時代劇でよく出てくる「免許皆伝」よりも上の奥義である。  
 剣術の道場などで剣術を学ぶ弟子を見て、師匠はそれぞれに、ランクをつけた、そのランクの最高位が「口伝」なのだ

 今の剣道で言うところの「段位」という概念は、江戸時代「切り紙、目録、印可、免許、皆伝、口決、口伝」というランクで呼ばれていた。

 ちなみに一番下の「切り紙」というのは、師匠が剣術の技や心構えを紙に書いて切って渡したことからこう呼ばれているらしい。
 全くの素人から剣術を始めて、そこそこ形になってきたあたりで、この「切り紙」がもらえるのだが、何も無いと、張り合いが無いので、剣術をやめてしまう。
 弟子に道場をやめられては、道場が成り立たないので、こういった目に見える「奥義の切れ端」を渡して「精進しろよ」と言うわけである【笑

 話を戻すと、日本では、技術を伝承する、というのは、こういった剣術道場や、職人の工房のようなものしかなかったわけである。

 その後、明治維新を迎え、日本にも工業化と工場大量生産の波が押し寄せたが、その形こそ取り入れたものの、肝心の技術の伝承と言うのは、こういった職人の師弟制度の延長でしかなかった。

 師弟制度は卓越した職人を作ることができる、しかし、大量生産大量消費の世の中が必要としていたのは、一握りの卓越した匠の職人ではなく、大量の、普通の技術者だったわけである。
 
 均一の規格化された製品を大量に生産し、それを維持管理するという業務で求められている技術と、個々それぞれに違う案件をそれぞれの業態に応じて処理する技術とは、根本的に違う。
  
 前者は米軍のマニュアルの世界。後者は剣術の免許皆伝の世界である。
 どっちが正しいわけでもどっちが劣っているわけでもない。求められているものが違うのである。

 これを同一の物として論じるのは愚か者だと私は思うのだ。


 
 
 

 

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